『ミニマリスト』という言葉が市民権を得てから時が経ち、「ミニマリストって少ない物で暮らす人ですよね?」と言われる程には認知されてきたと思う。
ただ、世間で認知されている『ミニマリスト』と現代の『ミニマリスト』とでは若干の齟齬が生じていて、妙な派閥の様なものまで出来つつあるらしい。
元ミニマリストで現ゆるミニマリストな俺としては、定義が曖昧な概念の中でちょっとした派閥争いが起こっている時点でナンセンスだと思ったりはするんだけど、
今回はそのへんについてを書いていこうと思う。ちなみに俺なりのミニマリストの解釈については過去記事で語っている通り。
世間の『ミニマリスト』像
そもそも『ミニマリスト』という言葉は、最小限の装飾が施された芸術(ミニマルアート)を生み出すアーティストに由来している。
そこから意味が転じて、”最小限の物だけで暮らしを送る人たち”を指し示す言葉になったという経緯がある。
お金がない・質素で簡素・人間味の欠落・・・こういった、大なり小なりネガティブなイメージが付きまとうのも、物が少ない事に起因している。
そして、世間の『ミニマリスト』像というのは概ねこれだし、物の数で競争する志向が強い人が抱く『ミニマリスト』像も恐らくこれだろう。
ミニマリストに明確な定義はない
繰り返しにはなるんだけど、『ミニマリスト』という言葉は最初から存在していた言葉ではなく、アートに由来するぽっと出の概念だ。
しかも、昔から「私はミニマリストだ」と名乗った有名人がいたわけではない。
1人のミニマリストとして考えられるAppleの元CEOの故スティーブ・ジョブズ氏も、本人がそう名乗ったわけではなく、後世の人間が勝手にミニマリスト扱いしただけだ。
一部の成功者のライフスタイル+アート由来の”最小限”というイメージ=『ミニマリスト』という概念でしかない。だから明確な定義は存在するわけがないのである。
ミニマリストが手放すのは物だけではない
冒頭に貼ったリンク先の記事でも書いたとおり、少なくとも俺は、ミニマリストが手放すのは物だけではないと考えている。
ミニマリスト思想は、達成したい目標に向けて生活を合理化・効率化する為の戦略だから、物だけを手放す事に拘る必要はない。
極端な話、洗濯機と乾燥機を手放して手洗いで洗濯するのと、洗濯乾燥機を導入して洗濯した服を干すという行為自体を手放すのとどちらがスマートか?という事である。
…例えば、俺は過去にミニマリストとして物以外にサービスや習慣も手放している。詳細は以下の記事を読んでみてほしい。
名乗りたければ好きに名乗ればいい
結論として、明確な定義がないのだから誰だって名乗る権利があると思う。
”minimal”というのは相対的に最小である状態を指す言葉。相対的というのは、何かと比較した時の表現だ。
であるならば、自分にとって無駄と思うものが最小限な状態であれば、それはもうミニマリストと名乗っていいだろう。
手放したのが物であってもサービスであっても習慣であっても、無駄が減らせればそれで良い。
そもそも、「物が少ない」というのは具体性に欠く表現なのだから他人からの評価も当てになるものではない。自分で決めるべきだ。
”ゆる”ミニマリストとは・・・?
俺の結論であれば、俺も元ミニマリストではなくてミニマリストを名乗ることが出来る。でもそうはしない。俺なりのケジメのようなものである。
ミニマリストとして道を違えてしまった時に、「俺には達成したい目的がない」と自覚してしまったからである。
だから俺の中では、以下の通りに定義している。
- 達成すべき大きな目的の為に無駄を手放す人=ミニマリスト
- ただ生活を改善する為に無駄を手放す人=ゆるミニマリスト
もちろんこれは俺の中での定義だから、俺と同じように生活を改善したいだけの人であってもミニマリストは名乗れる。
ちなみに、俺がマキシマリスト→ミニマリスト→ゆるミニマリストとなった経緯は以下の記事に記載している。
ミニマリストであることにこだわる必要はない
ミニマリストというのは別に宗教でもなんでもなく、ただ効率的に生きるための手法・ライフスタイルの中の1つである。
究極的に万能な生き方というわけでもないし、やろうと思えば誰だって実現できるようなものである。だから特別視する必要も、ましてや神格化する必要もない。
宗教のように派閥に分かれる意味もないし対立する意味もない。効率的な生き方など人それぞれだし、他人の生き方に口出しする余裕はないはずである。
ミニマリストであることに過度にこだわらないで、自分なりに合理的に生活することを心がけるべきである。周りからの評価など、毛ほども価値はない。